2007年6月28日

正義論

道徳とは主として血縁からの距離に従って徐々に減退しながら生存利潤を増進させる様な忠言の方便度に基づく。我々は倫理と道徳ないしはethicsとmoralという用語の間に、まだ私徳と公徳に値する批判体系内確定性を与えられずにいる以上、通例に倣って文脈に頼む。
 世界宗教の創始者は何れもみな普遍的正義を主張しながら道徳の基盤を築こうとした。そして彼らの文化律はどれも道徳論者から自由ではない。いいかえれば彼らは否応なく実用的だった。
 もし現代人間が世界宗教を総合しようと欲すればその教義のうち、文化律を駆除しなければならない。かつて聖者は亜縁な民族にとって必ずしも最適な倫理体系を樹立なし得た訳では無論なかった。それは古代正義に固有の限界でもあった。我々は道徳神学を超えて普遍宗教を哲学しなければならない時世にある。その為に必然なのは、文化の多声観を見据えた道徳の脱構築。
 我々が倫理観を語るには言葉を知らなければならず、行動とは思想の表現に過ぎないから普遍言語の創作は不可能である限り、又人間の周縁は無い以上全ての言語には必然がある。語られるべき善とは道徳より正義か。乃ち、独我的道徳論を意味する実用主義の破格によってしか理性の最善は観想されない。