2007年3月28日

道徳と倫理

我々はカント的命法が道徳律の普遍的定義であることに疑念を持たないが、他方ではいわば時代内倫理は応用的であらざるを得ないことに自覚的でなければならない。例えば理想を至上の幸福と考えた奴隷政下の知識階級の倫理観は、民主主義的施政における知識階級の幸福主義とはその労働に対する感覚で正反対の模様を呈する訳だ。とすると、良心の発露が社会において倫理化される経過においては時代環境に対する批判がなければならないことになる。
 前例を省みれば、我々が武士道倫理の中にいまなお見出す多くの美質は、ある時代環境の被差別への抗生を伴うのだろう町人に於ける不衛生で遊惰ないきの世界に対するように育まれて行ったものである。ここから考察されうることは、普遍道徳と個別倫理とは飽くまで別け隔てて思索されねばならない、という帰納的原則である。
 我々はカント哲学を闇雲に批判するアメリカの実利的人民の中には大いなる無知がある、と考えてよい。実際、多くの部分で実用主義とはアリストテレス哲学の低俗化に過ぎない、と見なしうるものだ。