2007年1月2日

趣味主義の基本

我々は数理科学によって世界認識のための抽象的方法論を発達させられた。仮証法的な漸進理解の際にのみ科学は成立する。文明とは精神に因果をもつ別体系の自然である。我々の理性とは最高目的としての思索する主体性の意味。結局、我々は理性を厳密には自然に対置し得ない。反自然的理性の定義は近代思想の誤解だった。理性とは自然が産み出した精神にすぎない。
 ところで我々は理性を究極目的にもつ精神実在を至高と見なすためにはあまりに恵まれた時空場にありはしないか。我々は未だなにも知らない。我々は宇宙世界の赤子に等しい。我々の文明は殆ど野性と言ってもよいほど幼稚で憐れで惨めなものでしかない。その様な最古代における人類の一員として、私は理性を観想における至上命題と考えたくはない。少なくともそう仮定することは理性批判という点から幾分なりとも建設的。無論、野蛮の旧弊にあった、形而上的人格観念たる神のせいにする気はないが、我々にとり理性という観念は常に、非我へのinterfaceを文脈づけるものでしかないだろう。
 我々が自然に働きかける仕方には促進とか、禅譲とか、回復とか養護とか再生とか、近代思想とは別の現代的見識も生まれうる。なぜなら主体性は媒介物とは別の理念であり、別の地位。我々は理性を自然の延長にある自律的精神として最定義する。それはしばしば後構造主義哲学の様に文脈上の道具にもなりうるし、また最高目的善化もされうるに違いない。
 自然と矛盾しない、その粋的見識を理性に対して描像するなら、我々は理想主義と道具主義とを止揚する新たな思念の立場を持つに至るだろう。いわば趣味主義という考えはこの範囲に属する。
 我々は理性を、entropyの次元でたえまなく遊戯する自然の、生化学的に抽出された本性とみなす。