カント以降の倫理哲学者が、彼が言う道徳律の最高目的性自体を批判しなかったのは、かなり不自然なこと。
どうして人類がそんなに尊いと彼は信じていたろう。彼の人間性への無条件な絶対信頼には多少のだまされやすさが皮肉づけられよう。我々の史実は、想像しうるほとんどあらゆる過ちを甘んじて犯して進む様な、もっとも不器用な自然の御者に過ぎなかったというのに。ムダな同士討ちの頻度については、むしろ大部分、他の動物にさえ劣ることを反省できる。
自然の狡智はヘーゲルが云う理性のそれに比べてずっと包括的な理念であり続ける。端的に言ってしまえば我々は中世の文脈で云う神様による失敗作。
我々の理性はかつてより身近な部族を守ることにしか役に立たなかったし、人類脳蓋が依然この大きさで、かつ手を加えられないかぎり今後もさほど伸長しないだろう。我々の共感能力には一定度の限界が設けられている。いかなる慈善家がいかにやさしくていねいに高等倫理学説を説明しようと、今日のごとき半開文明における大半の知性には、当為という観念の人格主義的な定義さえわからない筈。
そこには必ずしも矛盾があるわけでもない。我々に宿命された遺伝子は共感能に遠近性を特徴づけて、他人の子どもと比較した可愛さにおのれの命を勝利へ導くべく日夜画作する。理性は本能の変種。
種内競争の醸成はまた、文明体制を効きよく築く便利として普く機能していく。現代人類は後構造主義以来、神様を理性より優勢に置くほどただの語学上の問題で混乱してはいないが、しかしながら普遍的共感を政治抗争の上位に置く概念として一般化するほど優れた段階を到達した社会にいるわけでもない。
国際連帯の組織が超大国を覇権委譲へ導くためにはまだ幾つかの踏み段が必要。